森の行方

 

 森は創造し続ける。光合成を行う植物、他の生物を食べる動物、生物の遺体を分解するキノコやバクテリアなど多様な生命体の共生によって、森は豊かに変わり続けている。

 絵画の奈良田晃治、彫刻の松本誠史による二人展「森で会いましょう」は、静けさ、豊かさ、怖さのある「森」を2人の作品に重ね合わせたことから付けられたタイトルだ。まず、2人の芸術の「森」とは何かを見てみたい。

 

 奈良田は、ドイツやタイ、青森、和歌山など様々な旅先で目にした風景をモチーフにアクリルや油彩による絵画を描いてきた。2012年には個展「森のことを呟く」を開催、《Forest》や《樹海》など「森」を主題とした作品もたびたび制作してきた。

 近年の絵画は、一度描いた絵をグレージングという油彩技法によって塗りつぶした後、画面に残る色むらや、痕跡、筆跡などを手がかりに、なぞるように描かれる。その結果、画面全体に雨跡や菌糸のようなノイズが覆う重層的な画面が特徴だ。奈良田は風景を写実的に再現するのではなく、制作時に生じる偶然性も取り入れ、生成と分解を経て風景を絵画の土壌に定着させるのだ。

 

 松本は、粘土でかたまり彫刻を制作後、削り取った粘土屑の塊を積み上げてセメントで成形される。彫刻の技法である彫り刻むカービングと立体感を肉付けするモデリングという二つの彫刻技法が一つの作品に同居するのが特徴だ。

 2018年の「現代美術―茨木2018展」で展示された《純色の森》は、四角形に組まれた台座上に、セメントで成型された数十のさまざまなかたちが並んだ。縄文時代の土偶や自然信仰を思わせるプリミティブなかたちの生成と変容が循環・反復する展示構成は、土や泥濘に触れ、手を動かしながら偶然に生まれるかたちの始源へと鑑賞者の記憶を遡及させる展示だった。

 

 絵画と彫刻という異なる二人にある共通点とは何か。それは、奈良田が一度描いた絵を消し、松本が一度はかき取られた粘土によって、もう一つの世界やかたちを出現させようとしている「描く」と「欠く」技法にある。つまり、二人は欠損や欠如、欠片を媒介に、影や痕跡、形跡によって、新たな表象や形象を作り出しているのだ。二人にとって創造とは、森のなかで形を変えながら移動する粘菌(変形菌)のように、「森」の中で生成変化を繰り返す営みなのだろう。この創造の森の先に何があるのか、その行方を見つめたい。

平田剛志(美術批評)/ 森で会いましょう(2019)

〈雑感〉
 
一見、複数の作家による展示かと思われるほどにスタイルの異なる作品が並ぶ。掻き取って捨て置かれたような土くれ、木偶のようなセメント塊、ファンタジックなFRP像、円盤状に凝り固まった物質。会場を一巡すると、素材やそれに対する行為は各々異なるが、全体に通底する「なにもの」かの気配を感じる。それは具体的に「なに」と言えるものではない。作家は何かを表わそうとしているのではなく、消しても削ってもなお残されている「モノ」、剥ぎ取った末にこそ現れる「モノ」を見つけようと試行錯誤しているのだ。それは「物質」に宿る「モノ」を見つけ出す行為。
 
展覧会タイトルの「まだそこにいたのか」という言葉がしめす存在とは「何モノ」だろうか。会場には「まだそこにいたのか」というタイトルのついた作品が2点ある。この2点だけは他の作品と異なり、明らかな『貌(かお)』がある。「何モノ」とは『貌』を持った存在なのか、では『貌』とは何か。いや待てよ、渾沌に目鼻を空けるのは止そう。目鼻口耳の七穴が穿たれた途端に渾沌は死ぬ。『貌』は外から作られるべきではない、内から生み出されるものでもない。仮に『貌』が内なる生成と外なる浸蝕との相克によって生じる痕跡だとしたら、『貌』はあらゆる個体に存在する。そうした視点から見直すと『貌』があるのは2点だけでは無かった、彼の作品にはすべて『貌』がある。
 
GALLERY wks. / まだそこにいたのか(2016)